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November 30, 2005

ハッコー

sideA
「さ、きこう。いったい、相談ていうのはなんだい?」
会社のミーティングルームでおれは吉村とふたりきり、パイプ椅子に腰掛けていた。吉村というのはおれよりふたまわり半くらい若い、二十代なかばの男で、仕事のめんではまあまずまずの有望株である。おそろしくマジメなのがとりえで、人事考課のときはそのへんを長所としてコメントしてやるんだけど、ほんねをいわせてもらえるならじつはそこが欠点だったりする。
「あの、僕の妻のことなんですが」
吉村は遠慮がちにきりだしてきた。なるほどそうきたか。そういえば半年ほどまえに吉村は結婚をしたのだが、そのときのナコードをおれがしたのであった。たしかに職場の上司はおれなわけだが、だからといっておれみたいなにんげんに律儀にナコードをもちかけてしまうあたりがこの男の欠点としかいいようのないマジメさである。そいで夫婦の仲がこじれたからといってナコードに相談しにきちゃうあたりがもう、迷惑とさえいっていいマジメさである。
「ああ、奥さんか。そういえば元気でやってる?」
「はあ、それはおかげさまで、健康でいるんですが」
「それはよかった、うんうん。それで?」
「じつはですね、僕の妻は、ハッコーなんです」
「ハッコー?」
「はい。ハッコー」
「ハッコーってなんだ?」
「ハッコーというのは、つまり、サチが薄いという、あの…」
「あ? ああ、薄幸か。はいはい、あれね、あの薄幸ね。…ハウっ」
もしかしてこいつ、じぶんのヨメさんが薄幸で、それでなやんでるんだなんていいいだすんじぇねえだろうなとおもったらふきだしそうになり、それをこらえようとして腹筋に強力なダメージをうけてしまった。ともかくふきだしそうだったのはごまかさなくちゃならないので、おれはあしをくみかえて、椅子にすわりなおすそぶりをした。
「はい。その薄幸で、ひとからそんなことをいわれたりもして、ええ、カワシマの奴とかが冗談半分でいうんですよ、あの薄幸そうな奥さんとか、しょっちゅういわれてて、さいしょは気にしてなかったんですけど、なんども繰り返しいわれてるうちにだんだんとそうなのかなあって、僕もそういう気がしてきて、いえ、それを理由にわかれようとかいうつもりはないんです、もちろんそんなつもりはないんですけど、でも、僕にはどうも妻をしあわせにしてやれることができないんじゃないかと。だって、薄幸なんですよ? それってもう、運命じゃないですか。運命なんて、僕には変えられないじゃないですか。はい。それが悩みなんです。せっかく仲人までしていただいたのに、こんな話で申し訳ないです。ただ、やっぱり薄幸な女っていうのは結局、どんなことをしたってしあわせにはなれないってことで、僕なんかどうがんばっても…」
うわ〜、こいつほんとにいいだしちゃったよ。ほんとにヨメさんが薄幸っぽいのが悩みだとかいってるよ。うわ〜。「仕事むいてない」だの「ヤクザのクルマと事故った」だの「あのひとはいつもアタシをいじめる」だのなんだのかんだの、おれもそれなりにいろいろとばからしいのや深刻なのや困っちゃうようなのや、相談事っていうやつはうんざりするくらいきいてきたけど、こんなあほらしいのははじめてだな。どうみたってそれ、悩みじゃないだろ。どうころんだってそれ、わらえる方向にしかいかないだろ。だったらあそんじゃうか。どうやってあそぼうか。しかしなんでこいつもこんなわけわかんねえことぐだぐだいいだすのかなあ。ヨメさんが薄幸? そんな薄幸っぽかったか? まあいわれてみると線のほそいかんじではあったけど。けっこう美人だったよな。まあトシとるとたいていのおねえちゃんは美人にみえちゃうけど、それをさっぴいてもけっこう美人だった。こいつの結婚式のときはけっこううらやましかったもんな。いいなあ、おれもいっかいこの子とやらしてもらいてえなあとか、ナコード席でヨメさんをチラ見してたらボッキしてきちゃってあのときはあせったもんなあ。あんまりナコードってそういうことしねえよなあ。花嫁みてボッキしちゃっちゃまずいよなあ。でもしちゃうもんはしちゃうわけで、それはしょうがない。だいたい、そういうにんげんにナコードの話をもちかけてくるほうがわるいんだよ。ふつう、おもうだろ。ふだんのおれのオコナイをみてれば、おれにナコードさしちゃいけないって、それはふつうおもうだろ。どうもそういうところがこの男はピントがずれてるっつうか、なんでも杓子定規にしかかんがえられなくて、ナコードといえば会社の上司とか、そんなふうにしかおもいつけないんだろうなあ。だって、おまえ、ほかのやつはだれにもおれのところにそんな話もってこないだろ? こんだけひとがいて、半年おきくらいにだれか結婚式やってんのに、だ〜れもおれのところにそんな話はもってこないだろ? それはなんでなのか、ちょっとはかんがえてみろっつうの。わかってるのかなあ。わかってないだろうなあ。こいつは一生そういうのってわかんないんだろうなあ。こういうのって、ぎゃくにしあわせだよなあ、と話をききながしながら、ぼんやりとおれはおもった。

sideB
「さ、きこう。いったい、相談ていうのはなんだい?」
会社のミーティングルームで僕は太田課長とふたりきり、パイプ椅子に腰掛けていた。太田課長というのは僕よりふたまわり半くらい年上の、四十代前半の男で、僕がこの会社で唯一信頼している上司だ。このひとは仕事でもなんでも遊び半分どころか、遊び十割でやっていて、最初はなんでこんなひとが課長なのかと不思議だったのだが、やがて「このひとは凄い」と思うようになった。結果を出せるひとなのだ。それも、僕なんかでは絶対に残せなかっただろうすばらしい成果を、結果的に残せるひとなのだ。それはこのひとの発想の原点が、そもそも「遊び」というところからはじまっているからなのだ、と気づいたとき、僕は自然に課長を尊敬するようになった。もうひとつ、課長には僕にはない長所があって、それは「面倒見がいい」というところだ。それで僕の職場では僕のほかにも課長を慕っているひとは多い。
「あの、僕の妻のことなんですが」
僕は遠慮がちにきりだした。半年ほどまえに僕は妻のあられと結婚した。そのとき僕は仲人を課長にお願いした。人間的に信頼をし、尊敬もしている上司なのだから、仲人をお願いするとしたら僕にはこのひとしかいない。課長はこころよく僕の願いをききいれてくれ、無事に結婚式をあげることができた。あのときはこんなことになるなんて思いもよらないことだったが、このひとに頼んでおいたおかげで、こうやって妻に関する悩み事の相談を持ちかけることができる。そういう意味でもあのときの僕の判断は正しかった。
「ああ、奥さんか。そういえば元気でやってる?」
「はあ、それはおかげさまで、健康でいるんですが」
「それはよかった、うんうん。それで?」
「じつはですね、僕の妻は、ハッコーなんです」
「ハッコー?」
「はい。ハッコー」
「ハッコーってなんだ?」
「ハッコーというのは、つまり、サチが薄いという、あの…」
「あ? ああ、薄幸か。はいはい、あれね、あの薄幸ね。…ほう」
課長はそこで足を組み替えて僕のほうに身を乗り出してきた。真剣に話を聞こうとしてくれている姿勢になっているのがひしひしと伝わってきた。
「はい。その薄幸で、ひとからそんなことをいわれたりもして、ええ、カワシマの奴とかが冗談半分でいうんですよ、あの薄幸そうな奥さんとか、しょっちゅういわれてて、さいしょは気にしてなかったんですけど、なんども繰り返しいわれてるうちにだんだんとそうなのかなあって、僕もそういう気がしてきて、いえ、それを理由にわかれようとかいうつもりはないんです、もちろんそんなつもりはないんですけど、でも、僕にはどうも妻をしあわせにしてやれることができないんじゃないかと。だって、薄幸な女なんですよ? それってもう、運命じゃないですか。運命なんて、僕には変えられないじゃないですか。はい。それが悩みなんです。せっかく仲人までしていただいたのに、こんな話で申し訳ないです。ただ、やっぱり薄幸な女っていうのは結局、どんなことをしたってしあわせにはなれないってことで、僕なんかどうがんばっても…」
僕が話をしているあいだ、課長はただだまって聞いているだけだった。課長の瞳がめまぐるしく動いて、僕の話からなんとかして解決の糸口をみつけようとしているか、それができなくてもどういうアドバイスをしたらいいのか、考えだそうとしてくれているみたいだった。課長は、そういうひとだ。課長の瞳のなかには熱意があった。その熱意に導かれるようにして、僕は洗いざらいぶちまけた。そうやってしゃべっているだけで、悩みごとが浄化されていくようだった。やっぱりこのひとに相談をしてよかった、と僕は思った。なんでも親身になってきいてくれる、こういうひとが身近にいるというのは、しあわせなことだよなあ、と僕は話をつづけながら、こころのどこかでぼんやりと思った。

●ゆうがたクルマに乗ろうとしたら、後部バンパーのうえに枯葉が一枚たたずんでいました。なかなか見事なバランスだったのでおもわず撮影。11300003

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November 29, 2005

焚き火大全

まちの図書館にいったら「焚き火大全」という本があったので、よのなかにはいろんな本があるよなあと感心して借りてきた。いえにもどってひろげてみると、まんなかへんに一枚の紙切れがはさまっていた。カウンターで本を借りるときに必ずわたされる貸し出しの記録のしるされた感熱紙で、おおきさといい、感じといい、買い物をしたときにレジで渡されるレシートと似ている。そこにはそのとき借りた本が列記されていて、たぶん、おれのまえにこの本を借りたひとがはさんだままにして返却してしまったのだろう。本はいちどに五冊まで借りられることになっていて、このひともこの「焚き火大全」のほかに三冊、全部で四冊の本を借りていた。

 焚き火大全
 古典落語志ん生集
 毎日の子どもレシピ
 ごみぶくろのパクンち

なんだこれは。おもわずおれはくびをひねった。いったいどんなひとがこういうふうな本の借り方をするんだろう。借り手の顔というものがみえてこない、ふしぎな組み合わせである。とくに、さいごがいちばん謎で、この「ごみぶくろのパクンち」がすべての推理をはばむ城壁のような役割をしている。これ、なんの本なんだろう? パクさんの家がごみぶくろなの? それとももしかして「ごみぶくろのボクンち」の誤植かな。でも、それしたってごみぶくろが家じゃなあ。どうやってそんなところにすむの? と、いくらかんがえてもぜんぜん意味がわからないので、しょうがないのでネットで検索してしまった。つまり、ヒマなわけである。で、さいしょなかなかたどりつけなくて苦労したけど、なんだかんだとがんばってやっとみつけましたよ。こんなの。
「ごみぶくろのパクンちゃん ノッポさんのえほん」
「パクンちゃん」か〜。それは盲点だったな〜。どうもレシートにはタイトルが10文字しか印刷できないようで、へんなところで切れてたものならしい。なるほどそうだったのか〜。って、「パクンち」が「パクンちゃん」になってもいまひとつなんの本なのかはわからないのだが、サブタイトルに「ノッポさんのえほん」とついているからにはあの、ノッポさんの絵本なんだろう。対象は幼児むけ。おお。幼児むけか。これは大ヒントだ。おおきく前進。してみるとこれらの本を借りてった犯人は(いつのまにか犯人あつかい)幼児だったらしい。三歳とか、四歳とか、そんなものか。しかもあわせて「毎日の子どもレシピ」を借りているのだから、どうやらこの幼児はじぶんでごはんをつくってたべてるらしい。なんと殊勝であることか。三歳にして自炊。三十にしてやっと立った孔子よりずっとえらい。じぶんでつくったごはんをたべて、食後のささやかなたのしみは志ん生落語。しぶいねどうも。まいったね。そんなしぶい子供でいるのは、それなりにストレスがたまることではないのだろうか、といったわれわれの心配は無用だ。なぜならかれは日々の暮らしにつかれたとき、焚き火をして癒されている。それがかれのストレスへの対処法なのだ。おれのまぶたの裏には、かれが焚き火をしている光景がまざまざと浮かんでくる。ぱちぱちと薪のはじけるおとをききながら、かれはひとりじっと炎をみつめている。ゆらめく炎がかれのかおを照らしている。山奥なのか、浜辺なのか、それはわからない。場所はどこだっていい。焚き火と、かれ。ほかにはなにもいらない。二時間でも、三時間でも、ときには五時間も、かれはひとりきり、そこにとどまってじっと炎をみつめる。ダウンジャケットのポケットから煙草をとりだし、炎にそのさきをちかづけて火をつける。煙草をふかくすいこんで、おとをたてて煙をはきだす。もう片方の手にはアルミのマグ。なかにはジャックダニエルがツーフィンガー。ここまで、ここをすぎず。三年間かたくなにまもりつづけてきた、それがかれのルールだ。夜空には満天の星。高いところを吹く風が、高い木の枝をゆらす。どこまでも暗く、どこまでもしずかで、どこまでも夜は深い。いま、この世界にはなにもない。あるのはただ、ほんのりとあたりをてらす炎と、それをみつめるかれ。それだけだ。どれくらいそうやって時をすごしたのだろう。やがて薪のはぜるおとがすくなくなってゆく。炎はだんだんとちいさくなってゆく。けれどもかれはまだうごかない。ただ、じっと炎をみつめている。それが消えてなくなるまでみまもりつづけ、とうとう完全に消えてなくなったとき、かれはすっかりと癒されている。かれはじぶんがもういちど生まれ変わったのだと実感する。そんな三歳児が、このまちのどこかに暮らしている。……いやいねえから。

●「焚き火大全」はほんとにさいしょから焚き火についてえんえんとかかれていました。よくもまあこんなに焚き火について語ることがあるものだと感心しました。
●しょ〜もないことですが「かきねのかきねのまがりかど、たきびだたきびだおちばたき」という歌があって、子供のころなぜか「たきびだたきびだ落ちマタギ」だとおもいこんでいた。「落ち武者」みたいなかんじで「落ちマタギ」というのがよのなかにはいて、鉄砲をかついで山のなかをウロウロしてるんだとおもいこんでいました。6歳かそれくらいのころ。マタギなんて言葉はしってるくせにこのイメージがおかしいことにはちっとも気づかなかった。

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November 28, 2005

夢夢

パチスロというのもおなじ店にかよっているとかおみしりができる。おたがいになまえはしらない。ふだんなにをしているひとなのかもしらない。でも、かおだけはしっていて、隣りにすわれば世間話をしたりもする。きっかけは簡単で、たとえば依存症の、パチスロ屋にいりびたっているおばちゃんの隣りで打っていたとする。おばちゃんにボーナスがはいる。でも目押しができなくてボーナス絵柄がそろえられず、たのまれてかわりにそろえてあげる。おばちゃんはおれいに缶コーヒーをおごってくれる。「きょうは全然だめでねえ、もうここまでで5マンもやられててねえ、やんなっちゃったわよう」「そりゃたいへんだ。ずっとこの台やってんの?」会話がはじまって、小一時間も隣同士で話をしながら打ってしまえばもうかおみしりだ。つぎからは店でかおをあわせれば挨拶をする。「きょうはどう?」「だめだなあ。そっちは調子いいみたいじゃない」「たまにはね。勝たしてもらわないと」簡単な会話もかわす。そういうしりあいがすこしずつふえて、気がつけばけっこういて、そのなかに女の子がひとりいる。二十代のなかばくらいの、まちなかでみかけたらたぶんふつうの女の子なんだけど、パチスロ屋でみかけるとすこしめずらしいのは、髪を染めていないのと、なぜかちゃんとした格好をしていることだ。銀座に買い物にきた女の子のしている格好と、柏に買い物にきた女の子のしている格好の、ちょうど中間あたりに位置する格好で、パチスロ屋ではじつは、ばかげた格好をした女の子のほうがおおいくらいなので、彼女みたいに、ふつうにちゃんとした、いやみにならない程度のおしゃれをしている女の子というのはあんまりいない。彼女は、仲がいいというわけじゃないんだけど目があえば挨拶をするし、隣りで打っていればすこしは世間話をするくらいの、パチスロ店内におけるふつうのかおみしりのひとりだ。しばらくまえに、その女の子の隣りで打つことがあって、いぜん彼女はいつも男の子(という言い方はおかしいかもしれないけど、二十代半ばくらいの、やっぱりおれにとっては「男の子」です)と連れだってきていたのだが、さいきんその男の子といっしょにいなくて、ひとりで店にきてひとりで打ってひとりでかえっていくようなので、ふとそのことをたずねてみた。
「ところでさいきん、いつもいっしょにいたおにいちゃん来てないけど、どうしたの?」
彼女はそこでとたんにスロットを打つのをやめてしまったので、それでどうもおれはまずいことをきいてしまったらしい、と気がついた。ふんではいけない場所をふんでしまったのだ。そのせいで彼女のなかでなにかがゆがんで、それにつられて彼女のまわりの空気がかたまってるみたいだった。
「わたし、ふられちゃったんです」と彼女がいった。落ち込んでるようすはない。ふつうの、はっきりとした口調だった。でも、そのせいでかえって彼女が深く傷ついてるのがわかるような気がした。そのまま彼女はスロットを打つ手をとめて、じっとすわったままでいるので、おれも打つのをやめた。
「ん〜。あ〜。…。ええとあの〜、よかったらあの〜、話をきこうか?」
いきがかり上しょうがないので、かなり弱腰な姿勢ではあるが、ともかくそう提案してみた。ほんのすこし間があいて、たぶん彼女はまよっていたのだろう。やがておれのほうをみた。ちいさい動物がおおきいいきものの目をのぞくときみたいに、相手の目のなかに敵意とか悪意とか怒りとかそういう邪悪なものがまじってないか確認するみたいな目つきでしばらくおれをみつめて、やがてちいさくうなずいた。おれたちはスロットのシマからははなれたところにある休憩コーナーへ移動して、テーブルをはさんでむかいあってすわった。ここでならふつうに会話ができる。スロットというのはかなりうるさいものなので、台をまえにして話をするときは大声をだすか耳のそばにくちを近づけて話すかせねばならず、それなりに消耗するし、それに、大声でわめきあうには、このときの話題はデリケートすぎる。おれはかたわらにある自販機で紙コップの紅茶をかって、彼女にすすめた。彼女はひとくちだけそれにくちをつけたが、じっさいに液体がのどの奥にながしこまれたようにはみえなかった。それから紙コップを目のたかさに持ち上げて、それをみつめていた。
「あのおにいちゃんは、彼氏だったの?」
彼女が話しだすきっかけをつくるために、おれはそうたずねてみた。そもそもおれは彼女とその男の子がどういう関係なのかもしらかった。
「つきあってもう、八年だったんです」と彼女がこたえたので、
「へええ」とおれは感心した。ほんとうにつきあってたのかあ、という感心がほとんどだった。そのおにいちゃんというのは、メガネをかけていて、デブというほどじゃないけどすこしふとっていて、それも精神のだらしなさが身体にあらわれていでてしまったというみたいなふとりかたで、顔だってむくんでるし、髪の毛もとかしたことなんてないような感じで(じっさいそうだとおもう)、さらにおどろいたことにはいつみてもおなじ格好をしていて、それもケイパだかアディダスだかそのまがいものだかはよくおぼえてないけどとにかく白黒のスポーツウェアの上下というスタイルで、あしはハダシにはきふるした健康サンダルだし、ときどき靴下をはいてることもあったけどでもやっぱり健康サンダルだし、それよりなによりもう全体的にくさいし、くさくてかなわんのだし、そういうおにいちゃんが彼女みたいなふつうにこぎれいな女の子といっしょにいるのはけっこう目立つことだったので「あのふたりは恋人どうしなのかなあ、いやさすがにそれはないよなあ、でもなんでいつもいっしょなのかなあ、まさかケッコンしてたりするのかなあ、いやいくらなんでもそれはないよなあ、でもなんでいつもいっしょにいるのかなあ」とひそかにまえまえからおれは疑問におもっていたのだが、ここでこうして彼女からきっぱりと「つきあっていた」ときかされて、おもわず感心してしまったのだった。よのなかにはときどき釣り合いのとれていないカップルというのがいて、ものすごくきれいな女の子とどうってことのない男の子が親密そうにしているのをみると「彼女はこの男のどこがいいんだろう」とおもってしまったりすることがあるが、これはそのメジャーリーグクラスのパターンであるらしい。男女の仲はわからないというか、ひとの好みというのはそれぞれというか、人間の多様性というのはおれの貧弱な想像力をいつだってはるかに超えている。超えているけど、それにしたってこれは超えすぎで、「あのおにいちゃんのどこがいいの?」と、とっさにおれはこのことを彼女にたずねたくなったのだが、いきなりそれは失礼なのでこの件については控えておくことにして、とりあえず、
「原因はなんなの?」と、これはつまり別れた原因はなんなの、という意味なわけだが、この点をたずねてみた。
「わたしより夢夢のほうがすきなんだって。そういわれました。だから、もう、つきあえないって」
「夢夢? 夢夢って、アレ? あの夢夢?」おれがスロットを打つまねをすると、彼女はうなずういた。
「そう。あの夢夢です」
「よくわからないんだけど、夢夢がすきだとどうしてつきあえないの? おかしくない?」
「だって、そういわれたんです。夢夢のほうがすきだから、もうおわりにしようって」
「いや、だって、そんな…」
「わたし、夢夢に負けちゃったんです」
「負けたって、いや、ちょっとまってよ、え…?」
夢夢というのは緑色の髪をした女の子のキャラクターで、それをモチーフにしたパチスロがある。もともとはたぶんパチンコのキャラクターで、かなりいぜんからあって、根強い人気があるみたいで、いまだに現行機にもちいられている。その夢夢に彼女はどうも、負けてしまったらしい。なるほど、事情はおおむねわかった。けれども、理解はできない。「わかったけれども理解はできない」というのは文章としておかしいかもしれない。でも、まったくおれはそういう気分だった。「ほかにすきな女の子がる。だからおまえとはつきあえない」とつたえてくるのは、男女の道をゆくものとして、その歩き方は正しい。でも、歩き方が正しくても、道そのものがまちがっている。根本的にまちがってる。夢夢ってだって、パチスロだよ? スロットなんだよ? なんだよそれ。おかしいだろ。オカ・スィ〜だろ。こういうたとえはしちゃいかんのかもしれないが、雑誌に掲載されているどこかのおいしいとんかつ屋のとんかつの写真と、近所のとんかつ屋で注文してでてきた本物のとんかつと、たしかにおなじとんかつではあるけれどそれは比べるものじゃないだろ? それはそれ、これはこれで、べつなものだろ? だってそれはおなじとんかつであるようにみえて、じっさいは紙とたべものなわけで、比べることはできないだろ? どんなにおいしそうにみえたって、紙に印刷されたとんかつはけっきょくは紙にしかすぎなくて、たべることはできないんだから、比べたってしょうがじゃないか。そういうところは混同しちゃいけない。そうおもわないか? だいたいそもそもあの男の子は、この女の子の価値がわかってるんだろうか。あのメガネの白デブは、じぶんがやらかしてしまったコトの重大さがわかっているのか。このもったいなさを自覚しているのか。おまえ、このさきおまえに好意をいだいてくれる奇特な女の子がほかにあらわれるとおもってるのか。おまけにかんがえてみれば、この女の子だってちょっとおかしくて、彼女にしたって自分の値打ちがぜんぜんわかっていない。パチスロのキャラクターに負けたって落ち込むいぜんに、パチスロと比較されること自体がおかしいことに気づくべきじゃないのか。そんなおかしな比較をする男のなにがいいのか。あの男のどこがいいんだ? ねえ、アレのどこがいいの? なにをどうみまちがえればあのメガネ白デブジャージのキモオタをすきになることができるというの? ねえ? おれにはわからないよ。さっぱりわからない。なにもかもわからない。ぜんぜんわからない。あまりにわからなさすぎてどうも思考がどうどうめぐりしがちなのだが、まとめてみるとおれのわからないことというのは、
●なんであの白デブは自分に好意をいだいてくれてるふつうの現実のかなり奇特な女の子よりもパチスロのキャラのほうがいいというのか
●なんでこの女の子はそんなふざけた男がすきなのか
というこの2点に集約されるわけだが、どっちもわけがわからなくて、わからないのだからおれには彼女に対してどういうアドバイスをするべきなのか、どんな言葉をかけてやるべきなのか、ちっともおもいつかず、ただそれよりも、人類のふしぎさに感極まって沈黙をせざるをえないのだった。そんなふうにおれがなかばあっけにとられてだまりこんでいると、そのかんえんえんとなにかをおもいつめていた彼女の目からするる〜っと涙がひとしずくこぼれた。それはほんの一瞬のできごとだった。みるみるうちに彼女の目がうるんで、だれにもかえることのできない運命みたいに涙があふれた。これにはおれもあわててしまい、「うげっ」と悲鳴をもらしてたちあがり、消費者金融の広告のついたポケットティッシュをわたしたり、紅茶をすすめてみたり、なんだりかんだり、彼女の前後左右でアタフタとおれはいったいなにをやっているのか状態になってしまった。なにをやっているのかはよくわからないが、とにかくこれは非常にまずいことなので、彼女にはいますぐただちに、それが無理でも一秒でもはやく泣きやんでもらわなくてはならない。なにしろこれはハタからみたらあらぬ誤解をうけるのはまちがいのない光景なわけで、たまたま会社の同僚がこの場面を目にして翌日の我が社におけるホットな話題になったりだとか、それがめぐりめぐってニョーボのミミにはいってしまったりだとか、想像するだけでめまいがするような危機的状況なわけで、しかもそれは悲観的観測というわけでもなくて、可能性としてじつにおおいにありうるわけで、いっそ彼女をほったらかしにしてこの場から逃走をくわだてようかともおもうのだが、そういうわけにもいかないのが義理と人情の世界なわけで、遠くのほうで銭形の3G連BIGがかかって「男〜の美学ぅ〜〜」と高らかに歌ごえのひびくパチスロ屋の店内でおれは彼女をなだめすかしつづけた。ひとしきり涙をながすと彼女も気がすんだようで、やがて泣きやんだのだが、もうすっかりパチスロを打つ気分ではなくなってしまったらしく、「ごめんなさい。わたし、きょうはもうかえります。わたしの台のコイン、ちょっとだけどあれ、つかっちゃってください」と宣言をしてたちあがり、おじぎをしておれにほほえんだ。正確には、ほほえもうとした。ところがそのとちゅうで「うっ」とつまった表情になり、またしてもみるみるうちに目に涙がたまってきて、それをこらえながら彼女は店の外へはしりさった。なんだかドラマみたいなことをする女の子だなあ、と取り残されたおれはおもった。どうも想像力や理解力を超える話をきかされて、なんだか毒気をぬかれてしまって、いつのまにやらおれまでが勝負をする気分にはなれなくなっていて、あのおにいちゃんのどこがいいのかなあ、それにしてももったいないよなあ、モノの値打ちがわからないやつだなあ、あんなやつのどこがいいのかなあ、いやそれにしてももったいないよなあ、とそんなことをぐるぐるとかんがえながら上の空でスロットを打っていたらそのあと5マン負けた。どうもパチスロ屋ではあんまりたちいった話はするもんじゃないね、というのがこの日おれがえたささやかな教訓だ。

●人間性バトン。
1)回してくれた方(下条さん…どうでもいいけどリンクなんてひさしぶりに貼ったからこれでやりかたあってるのかな。心配だ)の印象をどうぞ
 駄目で怠け者で嫌な正確で内弁慶で博識を気取る馬鹿。あと酔っぱらうと暴言。つぎの日に謝罪。酔暴翌謝。下条さんをあらわす四文字熟語。…あわわわ。いやもちろん冗談です。えと、たぶんご本人はもううんざりするほど多くのひとからいわれてるだろうけど、「ものしりなひとだ」とおれもおもいます。いや、ものしりなんて言葉じゃないな。なんかもっとこう、その手の高級な言葉。おもいつかないのでごめんなさい。とにかくなにしろあの知識量と記憶力はすごいとしかいいようがないです。記憶力がいいひとってじつは意外とアレだったりして、つまり知識や記憶に頼ってしまうのでじぶんで考えつこうとするのをおこたってるうちにアレになっちゃってたりするんだけど、下条さんのばあいはちゃんとあたまもいいところがそんけ〜です。ただ……

2)周りから見た自分はどんな子だと思われていますか?5つ述べてください。
 …子? どんな子? ……。ええと、子だとおれのことを思ってくれているひとは両親とか親戚のじ〜とかば〜とか、いや、もう連中もおれのことは「子」だとはおもっていないかもしれなくて、つまりだれからもたぶん「オヤジ」だと思われてるので、どんな子もへったくれもないです。話はちがいますがさっきブックオフにいったんだけど、ブックオフにいくといつもおもうんだけど、店員さんが「いらっしゃいませええええええこんばんわあああああああ」ってこえをかけてくる、あの発音てヘンじゃないですか? いくたびにけっこう気になるんだけど。それともあのヘンないいかたをしてるのはおれのまちのブックオフだけ? ヘンていうのはこう、うまくいえないですが、まず「いらっしゃいませえええええ」っていうときにちいさいところからだんだんおおきくなっていってさいごは最大音量にもっていくみたいな、アンプのボリュームをミニマムからマキシマムにあげていくみたいないいかたをして、つぎの「こんばんわああああああああああ」はそのマキシマムのところからはじめて「ああああああああああ」のところでぎゃくにボリュームをしぼっていって最後はゼロにしておわるみたいな、そんなかんじなんですけど。ここ茨城県某市のブックオフではそのようなブキミな挨拶のこえが入店とどうじにほぼすべての店員さん(男女あわせて五人くらいいる)からかけられて、なにか宗教的体験をしているような気分になりますけれどもみなさんのまちのブックオフはどうでしょうか。どうでもいいんですけどでもけっこう気になります。あのいいかたはだれの発明なのか。どんな歴史があるのか。なんていうか、あのひとたちに萩原朔太郎の詩の朗読をしてもらったらけっこうはまる気がします。というわけでとつぜんですがここで萩原朔太郎「青猫」から「遺傳」を無断転載(一部)。
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遺傳

人家は地面にへたばつて
おほきな蜘蛛のやうに眠つてゐる。
さびしいまつ暗な自然の中で
動物は恐れにふるへ
なにかの夢魔におびやかされ
かなしく青ざめて吠えてゐます。
  のをあある とをあある やわあ
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 うおおお。そうおもって意識してみるとたしかにブックオフテイストだぜ。そうおもいませんか。とくにこの、「のをあある とをあある やわあああああああああああああ」のところなんてもう、ブックオフとしかいいようがない。ぜひあそこの店員さんに朗読してもらいたいです。

3)自分の好きな人間性について5つ述べてください。
 人間性。人間性ってなんだろう。いやほんとにちょっと、よくわかってません。性格とか性向とか性癖とかいわれるとなんとなくわかるんだけど、「人間性について」とかいわれちゃうと、意味がよくわかってないのでうまくこたえられません。人間性をあらわす言葉ってなんだ? そもそも人間性って、なんだ? ぜんぜん関係ないですがこのブログからいつのまにかじぶんのメールアドレスが消えてることが判明しましたので、いちおうこれをつけておくことにしました。

4)では反対に嫌いなタイプは?
 タイプ。なんでさっきは「人間性」だったのにこんどは「タイプ」になっちゃうの? 関係ないけどあと、プロフィールのところもすこしかえてみました。どうかえたかというと、こういう言葉にかえました。

「別にいいのだけど、この人って幸せなのかしらね?」

 この、だれの心にも突き刺さる名言は、大坪五郎さんの「大坪家の書庫」というサイトで発表された「カレーへの道」と題された一連の文章のなかの「キュアメイドカフェのチャンピョンカツカレー(2004/9/26)」という項で、大坪さんの奥様がはからずも、そう、まさに「はからずも」もらしたとされる至言です。じっさい、わたしはこれ以上ふかく心をえぐられた言葉をネットじんせいにおいてかつてみたことはないといったら過言です。なんじゃそりゃ。ともかく、じつに味わいぶかいこの言葉をほんじついきなりおもいだしてしまったので無断借用いたしました。

5)自分がこうなりたいと思う理想像とかありますか?
 まあそんなのはどうでもいいじゃないですか。あと、さっきいいわすれたのですが下条さん、「茨城ではああいう顔がふつうだ」とかいう知識については、これはまちがってるとおもいます。まあひとつやふたつまちがった知識をもっていたって、それが下条さんの人間的魅力をそこなうなんてことはないので、どうだっていいっちゃいいんだけど。下条さんはすばらしいひとです。下条マイラヴ。ただ…

6)自分の事を慕ってくれる人に叫んでください。
 みんないいひとです。ただ…

7)バトンタッチ15名!(印象つき)
 「印象つき」というのでおもいだしたけど、さいきん象印の電気ポットをかいました。あたらしいやつはお湯の出が調子よくってやっぱりうれしいです。ただ…というわけで、なんとかバトンにかこつけた近況報告とかブログ変更点報告とかなんだとかかんだとかそのたいろいろおわり。なんだかきょうはいように長くなってしまった。

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November 17, 2005

しばりょうたろうの『花神』という本をまたぞろよみだしたのには理由というものがあって、というのはなんというかどうもさいきんコトバというものがところどころぬけおちてしまっていて、
「あのほら、銀行でつかう小冊子はどこ?」
「は? 小冊子?」
「うん。ほら、あるだろ、いろいろ金額がかいてあるやつ」
「……貯金通帳のこと?」
「あ、うん。そうともいう」
「……」
だとか
「あ〜ヒマだねえ。こういうときっててもちぶたさだよねえ」
「……」
「なんだ?」
「…あの。それ、ぶさたです」
「なにが?」
「てもちぶさた」
「あ、うん、そうともいう」
だとかいった会話を、つまりもはや「そうともいう」としか返答のしようがない会話をそこらじゅうでくりかえすようになって、どうもこれはおれの記憶のメモリーのハードディスクのなにかともかくそのへんのどこかに欠損がしょうじているのではあるまいかと、そういう懸念がひしひしとしてきたので、じゃあやっぱりドクショだな、ドクショしておぎなっとかなくっちゃなと短絡的にかんがえてブックオフへいって本棚をながめていたらハードカバーの文学全集がよりどりみどり一冊105円でならんでて、どれにしようかなかみさまのいうとおりと順番に指をさしていったら井伏鱒二というところでとまったのでこれをかってきてよんでみたところいきなりサンショウウオの話で、たしかにほんの五分くらいでよみおわったのでそれはたすかったのだがいかんせんなにがいいたいのかサッパリわからない、と、ここまでかいたところでいまだにマルをつけていないような気がするのでこのへんでマルをつけとく。サービス。出血大サービス。。。。。これくらいつけとけばいいだろう。そんで井伏先生はよんでてもなにがうれしいのかちっともわからないのでパスしてさいどブックオフへいって本棚をながめていたらしばりょうたろうの『世に棲む日々』のハードカバーの3巻が105円でうっていたのでかってきてよんだらおもしろかった。しかしこの本は後半の主役の高杉晋作の寿命がおわったところで話もおわってしまうので、しかしまだまだ革命はとちゅうなのでこのさきどうなっていくんだっけかなと、そのさきの話がよみたくなってたしかこのへんがそのつづきなんだよなと図書館でかりてきたのが『花神』でさすがに図書館へいけば全巻そろっていていまその第二巻をよんでいるという、ここにいたるまでにはそれそうおうの壮大な物語というものがあったわけだ。そんで本をよむといろいろとためになるというかかんがえさせられるところがタタあるわけで、おれはなにをかんがえたかというとむかしのひとの名前はいろいろとインパクトがあるものがあるなあとかんがえた。たとえばちょっとまえに桜痴というひとがでてきた。福地桜痴。英語だとouchか。イタイのか。そんでそのちょっとまえには図書というひとがでてきた。みょうじはわすれた。ナントカ図書。なぜ図書。そんなかんじでときどきやぶからぼうに背中からばっさりと斬られるみたいな名前がでてきて、まったくもって江戸時代のひとは油断がならない。そんで、なんでこういう名前がつけられるのだろうかというと、やっぱりじぶんでじぶんに名前をつけられるからではないかと。ちかごろもたしかにけったいな名前というのはそちこちでみかけるようになったがしかし、しょせん親が子供につける名前なので痴の字だとか図書だとかそこまで大胆にふみこんだところまではいけない。けっきょく親子といえども他人であるわけで、いかに親が「これがいい」としんじこんでいようともそのセンスが子供に100パーセントうけいれられるとはかぎらないというか、まずそういう幸福な偶然はおこらないのであって、へたすると「なんでこんなヘンテコな名前にしたんだ」と子供にうらまれることもよくある話だというのは親だってじゅうじゅう承知なので、風変わりな個性的な名前をつけようとおもってもどこかで手加減というか妥協というか、まあこのへんまでなら許してくれるだろうみたいな常識のブレーキがかかってしまうので、江戸時代のひとみたいな「なんでその名前?」とあっけにとられるような文字列はでてこない。やっぱりこれは自分で自分に名前をつけるからで、子供のころは親がつけてくれた名前ですごすとして、それに飽きたらこんどは自分で自分につけるので、そしたらもうなんでもありになる。すべては自己責任なのでもう、世間のみなさまのドギモを抜くような名前はもちろん、画数が多い字をならべてあとでヒーヒーいって「わたしが悪うございました」としぬほど後悔したりとか、ぜったいにだれにも読めないような字をもちだしてきて周囲のひとをたばかってみたりとか、もうなんでもありのすべては自己責任でやりたい放題となる。そんな百花繚乱くるいざきの珍名江戸時代のなかでおれが気にいってるのはなんといってもやはり芹沢鴨さんです。鴨。つけられないよこれは。さすがに親が子に鴨という名前はなかなかつけられない。ていうかじぶんでじぶんに鴨という名前もなかなかつけられない。なんで鴨? そのへんの命名の由来というか事情というものをしらないのでどうしても純粋に疑問というものがしょうじてしまうんですが、なんで鴨にしたんですか? だって、鴨だよ? 鴨。ぜんぜんわからない。もしかしたら相手を油断させようとでもしたんだろうか。芹沢鴨というのはもちろん、新選組のひとなわけですが、こう、相手と刀を抜き合っておたがい構えつつ
「なにやつだ。名を名乗れ」
「芹沢鴨ともうす」
「…は?」
「芹沢鴨」
「…カモ?」
「さよう。カモ」
「失礼ながらそれはいかなる字をかくのか」
「甲府の甲にトリで鴨」
「え。それはつまり、あのトリの鴨? 鴨ナベとか鴨ネギとかのあの鴨?」
「さよう。その鴨」
「さようその鴨って…あの鴨なの? か、鴨って、う、うぷぷぷ、うひゃひゃひゃははあびらどばぶしゅううう」
とつまり、相手をわらわせて油断させといて「びらどばぶしゅううう」のところで鴨は相手を叩っ斬ってるわけですが、そういう実戦的な深謀遠慮をうちにひめつつ普段の生活はたとえ笑い者になってしまうのはしかたのないこととしてあまんじてたえしのびつつ、しかしこれがひとたび戦いの場になれば最強の武器になるのだという、そこまでかんがえぬいた鴨なのでしょうか。んなわきゃねえよな。でも、じゃあなんで鴨なんだろう。謎。芹沢鴨。茨城出身。

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November 09, 2005

td

●なんらかの陰謀があるにちがいない。ひゃっぽゆずって、陰謀といういいかたはもしかしたら不適切かもしれない。でも、すくなくともなにがしかの意図というものはかんじないわけにはいかない。東京ドーム、というものについてである。日頃からつねづね「あいつはどこか怪しい」とにらんでいたのだが、きょうもまた目撃してしまった。どこでかというと、ウェンディーズでである。きょうのひるはめずらしくウェンディーズにいった。そうしてトレイのうえにのせてある紙の宣伝文を、たいくつしのぎによんでいた。そういうことはおれはけっこうよくする。そこにはのっけからこんな怪しげなことが、あからさまに堂々とかかれていた。「ウェンディーズの契約牧場は東京ドーム3000個分の広大な敷地で云々」 …東京ドームである。またしても。ここで筆者はまたしても、注文したシュリンプバーガーをくちに運ぶのもわすれ、この東京ドームの陰謀とはなんなのか、熟考にしずみこむことになった。なぜ、東京ドームなのか? こんなところにまで、なぜ? ウェンディーズ、どうみたってきみはアメリカの女の子なのに、それなのになぜきみまでが東京ドームなのか。エーカーだとか、ヘクタールだとか、平方メートルだとか、坪だとか、反だとか、町だとか、面積を表現する方法はほかにいくらでもあるだろうに、なぜこうまでだれもがくちをそろえて東京ドームをひきあいにだすのか。ほかのなんだっていいじゃないか。かといっていきなり「原爆ドーム3000個分」とかいわれてもこまるけど、ともかく東京ドームのほかにも甲子園だとか神宮球場だとか川崎球場だとかいろいろあるわけで、にもかかわらずみんなして東京ドームをもちだしてくる必然性というのがどうにも筆者には理解できない。そもそもみんな、そんなに東京ドームのひろさというのを体感的にわかっているのか? わかるのか、東京ドーム3000個分が。いいや、そんなことはないだろう。わかっていないはずだ。すくなくともおれにはわからない。「東京ドーム3000個」といわれたって、そんなの全然わからない。素直に10万平方メートルとか、そんなふうにいってもらったほうがまだわかる。いちばんわかりやすいのは「町歩」で、これをつかってもらうと、これはもう体感的に眼前にひろがるかのようにそのひろさがわかるんだけどこれは個人的なことなのでべつにいい。そこまではいわない。でも、なんでそんなに東京ドーム東京ドームいうのか。なにがうれしくてそんなにまで東京ドームなのか。みんなでくちをそろえて。陰謀だろう。これは。まちがいなく。どんな目的があるのかはしらないが。だれかが裏で操っている。そうにちがいない。あともうひとつ、東京ドームほどではないものの多少なりともうたがわしいものに「四国」というのがあって、「四国三個分」とか「四国十個分」とかいうのもあれもまた怪しいのだが、四国方面には個人的に大変世話になっているのでこのさい四国陰謀説は提唱しないことにする。無理にじぶんでじぶんのクビをしめる必要はない。しかし東京ドームには恩も貸し借りもなにもないのでこのさいだからはっきりと申し上げておこう。みなさん、東京ドームは怪しいです。東京ドームにはくれぐれも気をつけてください。いつかかならず、なにかがきます。ある日、とつぜんに、みなさんが油断しきったそのときをみはからって、ヤツは正体をあらわします。…とかいってもその正体がなんなのか、なにをどう気をつけていいのかは筆者にもさっぱりわからないので、まさか巨大ロボジャビットが水道橋に出現して暴れ回るなんてことはないにしても、でもどういった手段をもちいてわれわれを陥れようとしているのかはまったくわからないので、とりあえずそのへんはおいといてこのさいだからきょうは素直に学習しときましたよ。やるべきことだけはやっとかないとね。というわけでここからは学習コーナーです。1東京ドーム(1td)=46755平方メートルだそうです。さきほどのウェンディーズの契約牧場は3000tdだそうなので46755×3000=140265000平方メートルですね。…ごめん。いま気づいたんだけどこんなふうにいわれても全然わかんねえや。しかしわかんないままにしておくのもなんなので、どのみちこのままいくとぜったい将来的には「td」というのがこのくにで面積の単位につかわれるようになるのは明らかなので、いっそもう覚えちゃっときましょう。おれも覚えるからみんなも覚えなさい。140265000というのは、ルートをつけると…って、あっ、この電卓、ルートができないじゃんかっ。だめだな〜アップル。ルートくらいできるようにしとけよ〜。しょうがないな。よっこいしょ。(十秒間の沈黙)しょうがないからちゃんとした電卓もってきたよ。ええと。ぽちぽちぽち。でました。カシオの電卓によりますと11843だそうですので、おおむね12キロ四方ですね。3000td=140265000平方メートル=おおむね12キロ四方。よろしいですかみなさん。つうかそもそもおおもとの1tdをおぼえといたほうがいいわけで、1tdすなわち46755平方メートルだったんで、こっちのほうにルートをつけると、ぽちぽちぽち。でました。216です。なんだ。216メートル四方か。けっこうなんちゃないじゃん。というわけで、みなさんいいですね、このさいだからおぼえちゃってください。1東京ドーム=216メートル四方。ついでにおれのためにつけくわえておくと、1tdはおおむね四町歩か五町歩くらいならしいすよ。なるほどそうだったのか。よしよし。これでもういつ面積の単位がtdになっても大丈夫だ。よしよし。というわけで、なんだかおもいのほかきょうはものすごくためになるわたしの日記でしたね。それではごきげんよう。あと、なんとなくところどころ東京ドームに失礼な物言いをしてしまった気がしますが、わるぎはなかったんです。もし怒ったならあやまります。ドームごめんなさい。

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●なんらかの陰謀があるにちがいない。ひゃっぽゆずって、陰謀といういいかたはもしかしたら不適切かもしれない。でも、すくなくともなにがしかの意図というものはかんじないわけにはいかない。東京ドーム、というものについてである。日頃からつねづね「あいつはどこか怪しい」とにらんでいたのだが、きょうもまた目撃してしまった。どこでかというと、ウェンディーズでである。きょうのひるはめずらしくウェンディーズにいった。そうしてトレイのうえにのせてある紙の宣伝文を、たいくつしのぎによんでいた。そういうことはおれはけっこうよくする。そこにはのっけからこんな怪しげなことが、あからさまに堂々とかかれていた。「ウェンディーズの契約牧場は東京ドーム3000個分の広大な敷地で云々」 …東京ドームである。またしても。ここで筆者はまたしても、注文したシュリンプバーガーをくちに運ぶのもわすれ、この東京ドームの陰謀とはなんなのか、熟考にしずみこむことになった。なぜ、東京ドームなのか? こんなところにまで、なぜ? ウェンディーズ、どうみたってきみはアメリカの女の子なのに、それなのになぜきみまでが東京ドームなのか。エーカーだとか、ヘクタールだとか、平方メートルだとか、坪だとか、反だとか、町だとか、面積を表現する方法はほかにいくらでもあるだろうに、なぜこうまでだれもがくちをそろえて東京ドームをひきあいにだすのか。ほかのなんだっていいじゃないか。かといっていきなり「原爆ドーム3000個分」とかいわれてもこまるけど、ともかく東京ドームのほかにも甲子園だとか神宮球場だとか川崎球場だとかいろいろあるわけで、にもかかわらずみんなして東京ドームをもちだしてくる必然性というのがどうにも筆者には理解できない。そもそもみんな、そんなに東京ドームのひろさというのを体感的にわかっているのか? わかるのか、東京ドーム3000個分が。いいや、そんなことはないだろう。わかっていないはずだ。すくなくともおれにはわからない。「東京ドーム3000個」といわれたって、そんなの全然わからない。素直に10万平方メートルとか、そんなふうにいってもらったほうがまだわかる。いちばんわかりやすいのは「町歩」で、これをつかってもらうと、これはもう体感的に眼前にひろがるかのようにそのひろさがわかるんだけどこれは個人的なことなのでべつにいい。そこまではいわない。でも、なんでそんなに東京ドーム東京ドームいうのか。なにがうれしくてそんなにまで東京ドームなのか。みんなでくちをそろえて。陰謀だろう。これは。まちがいなく。どんな目的があるのかはしらないが。だれかが裏で操っている。そうにちがいない。あともうひとつ、東京ドームほどではないものの多少なりともうたがわしいものに「四国」というのがあって、「四国三個分」とか「四国十個分」とかいうのもあれもまた怪しいのだが、四国方面には個人的に大変世話になっているのでこのさい四国陰謀説は提唱しないことにする。無理にじぶんでじぶんのクビをしめる必要はない。しかし東京ドームには恩も貸し借りもなにもないのでこのさいだからはっきりと申し上げておこう。みなさん、東京ドームは怪しいです。東京ドームにはくれぐれも気をつけてください。いつかかならず、なにかがきます。ある日、とつぜんに、みなさんが油断しきったそのときをみはからって、ヤツは正体をあらわします。…とかいってもその正体がなんなのか、なにをどう気をつけていいのかは筆者にもさっぱりわからないので、まさか巨大ロボジャビットが水道橋に出現して暴れ回るなんてことはないにしても、でもどういった手段をもちいてわれわれを陥れようとしているのかはまったくわからないので、とりあえずそのへんはおいといてこのさいだからきょうは素直に学習しときましたよ。やるべきことだけはやっとかないとね。というわけでここからは学習コーナーです。1東京ドーム(1td)=46755平方メートルだそうです。さきほどのウェンディーズの契約牧場は3000tdだそうなので46755×3000=140265000平方メートルですね。…ごめん。いま気づいたんだけどこんなふうにいわれても全然わかんねえや。しかしわかんないままにしておくのもなんなので、どのみちこのままいくとぜったい将来的には「td」というのがこのくにで面積の単位につかわれるようになるのは明らかなので、いっそもう覚えちゃっときましょう。おれも覚えるからみんなも覚えなさい。140265000というのは、ルートをつけると…って、あっ、この電卓、ルートができないじゃんかっ。だめだな〜アップル。ルートくらいできるようにしとけよ〜。しょうがないな。よっこいしょ。(十秒間の沈黙)しょうがないからちゃんとした電卓もってきたよ。ええと。ぽちぽちぽち。でました。カシオの電卓によりますと11843だそうですので、おおむね12キロ四方ですね。3000td=140265000平方メートル=おおむね12キロ四方。よろしいですかみなさん。つうかそもそもおおもとの1tdをおぼえといたほうがいいわけで、1tdすなわち46755平方メートルだったんで、こっちのほうにルートをつけると、ぽちぽちぽち。でました。216です。なんだ。216メートル四方か。けっこうなんちゃないじゃん。というわけで、みなさんいいですね、このさいだからおぼえちゃってください。1東京ドーム=216メートル四方。ついでにおれのためにつけくわえておくと、1tdはおおむね四町歩か五町歩くらいならしいすよ。なるほどそうだったのか。よしよし。これでもういつ面積の単位がtdになっても大丈夫だ。よしよし。というわけで、なんだかおもいのほかきょうはものすごくためになるわたしの日記でしたね。それではごきげんよう。あと、なんとなくところどころ東京ドームに失礼な物言いをしてしまった気がしますが、わるぎはなかったんです。もし怒ったならあやまります。ドームごめんなさい。

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