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May 31, 2005

自然界

 自然界。そこには有象無象の生命がみちあふれ無知蒙昧な僕などにはおよびもつかない方法で増殖とそれにまつわる七転八倒をくりひろげている。自然界。さまざまな生命がなんだかんだと誕生と消滅をくりかえし、ほんじつたったいまこのときも世代交代をかさねている。自然界。未知と驚異の世界。そして紫電改。それはこのさい関係がない。
 ともかく自然界、その驚異をちかごろ僕はまのあたりにしたのでご紹介しよう。まず菌類。去年の秋、そだてていた朝顔がタネをつけた。僕はそれをつくえの引き出しの奥にていねいに保管した。ことしも季節がめぐりきて、このタネをハチにうえて水をまいた。しばらくするとにょきにょきと芽がでて葉がでてきた。それはいいのだが、そのなかに、どうにもえたいのしれぬものがまじっている。どうみてもこれは朝顔ではない。菌類である。キノコである。どうみても。なんでこんなのが朝顔のハチからでてくるのか。どっからわいてきたのか。謎である。たしかに僕も水はやりすぎた。これでもかとハチに水をまきすぎた。結果として朝顔のハチはつねに湿地帯のような状況にあったことをみとめるのにやぶさかではない。しかし、だからといって、なぜキノコが? どっからきたんだこれ。おまけにおそろしく成長がはやい。きのう1センチくらいだとおもっていたらきょうはもう5センチくらいになっている。ブキミだ。この調子で成長をつづけて一週間後には8メートルくらいになってじつは食人キノコの正体をあかして夜中に僕がねているところをパクっとくいついてきたりはしないだろうかといやな想像をしている僕をよそに、キノコのすきなヨメはキキとして「キノコノコノコゲンキノコ」とフシギな歌を歌いながらキリフキで水をやっている。かといって朝顔のむれのなかにキノコが一本はえているというのもおかしいということで、ひとまず専用のハチにうえかえてみた。しばらくそうやって鑑賞し、あきたらそのうちくってやる予定である。もちろんそのまえにねんのためくえるのかどうかたしかめておいたほうがよかろうと図書館へいってキノコの図鑑をかりてきた。かりてきたはいいが、とてもじゃないがしらべきれないのに気がついた。しっていたか諸君。キノコというのは、とてつもなくいっぱい種類がある。ばかげているほどだ。僕なんかはめんどうくさがりなのでキノコはもうキノコってことでシイタケとエノキとその他ということで三種類くらいにしとけばそれでことたれりとかんがえるのだが、よのなかにはどうにも分類好きのひとたちというのがいて、キノコなんかも大喜びでちょこっとカサの文様がちがうだの色がちがうだのとかでいちいち分類をしてしまったらしく、おかげでこの有様である。なにしろ図鑑がもう、結婚情報誌くらいぶ厚いんである。せっかくかりてきたのだからとためしにひろげてみてもウチのキノコとにたようなのがあとからあとからでてきて、どこがどうちがうのかさっぱりわからん。おんなじだろこれ、といいたくなるようなのがつぎつぎでてきて、もはやこれは図鑑としての用をなしていないと僕にはおもえるのだが、キノコ好きのひとにとってはそうではないのだろうか。わからない。とりあえず僕は図鑑でしらべるのは断念して、食用になるのかならないのかはそのうちこっそりヨメのみそ汁にでもいれておいて人体実験によって確認するつもりである。なんの因果かわからぬが、ウチの朝顔のハチにはえてきたいじょうはウチでくってやるのが礼儀だとおもうからだ。しかし、キノコはまだなんとなくわかる。菌類なんていうくらいだから、そのへんの空気のなかをふわふわとただよってきたのかもしれない。たぶんそうなのだろう。そうしてウチの朝顔のハチに着地をして、そしたらなぜかじょばじょばと毎日水をかけてもらえるのでこりゃいいわいとカサをひろげたのかもしれない。たぶんそうなのだろう。それはいい。だが、貝類となると話はべつだ。貝類? 貝類だって? そんなものまでいるのか? そうだ。いるのだ。貝類が。いつのまにかいるのだ。ウチのメダカの水槽に。生物万歳。万歳なのか。ともかくここに、なぜかいるのだ。突如としてあらわれたのだ。タニシが。こいつはさすがに図鑑をひろげなくったってわかる。タニシはタニシだ。まごうことなきタニシだ。だがしかし、これはどっからわいてきたんだ? まさかこいつも空気のなかをふわふわとただよってきたのか。そうしてウチの水槽のなかに着水したのか? ありえねえよなあ。それはありえんだろう。どうかんがえても。でも、ほんとにいるのだからしょうがない。しかもこれがなぜかおもいのほか動きがすばやい。おれのイメージとしては1分で1ミリくらい、くたーっと緩慢に移動してそうなかんじなんだけど、こいつの場合はかなり機敏で、「くたー」というよりむしろ「くいくいっ」というかんじで水槽の壁をうごめいている。それだけならまだしもあろうことかへろへろと水中を泳いだりまでしやがる。しかもタニシ、2匹もいて、ときどきおたがいにじゃれついてるんだか共食いしてるんだかしらないけどともにひとつところに寄りかたまってうねうねと合体みたいなことをしてる。合体だって? それはつまりまさか交尾? タニシの交尾? なんてこったい。きみたちはこんな一般家庭の水槽のなかまでやってきて増殖をしようっていうのかい? うめよふやせよちにみちよってわけなのかい? わかったよ。ふえたまえ。おおいにふえたまえ。そのかわり、ふえすぎたときにはときどきヨメのみそ汁に投入してまびきさせてもらうけどかまわないね? 僕は水槽の壁をとんとんとゆびでつついてタニシにかたりかけてみる。そのうえにはキノコの鉢。やれやれ。と僕はおもう。水槽のタニシと鉢のキノコを交互にながめながら僕はかんがえる。こいつらはいったい、どこからわいてきたのだろう。諸君。気をつけたまえ。僕たちは、ほっといたらいろいろとわけのわからない連中がわいてくる世界に暮らしている。自然界。未知と驚異の世界。そして紫電改。それはこのさい関係がない。

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May 29, 2005

首切斎、来る。

 リストラの鬼、斎藤部長はたぶん、社内でもっともおそれられた存在である。会社に必要のない人間はさっさとクビにする。やる気のない社員、怠慢な社員、不平をもらす社員、目につくハシからクビをきり、無能な社員があらかたいなくなったところでとうとう有能な社員までクビにしだした。右をむいてはクビをきり、左をむいてはクビをきり、だれかれかまわずみさかいなくスパっとクビをきり、きってきってきりまくる。いつのまにやらついたあだなが首切斎、きょうもだれかのクビをきってやろうと社内を巡回している。……すいません、ここまでかいたのですがさきがおもいつきません。才能が枯渇しました。枯渇というかもともとないんですが。しかしこのままおやすみなさいというのもなんなのでまた世間話でもしてお茶をにごします。きょうは、なぜかじぶん、自宅の居間においてエバンゲリオンのシトというんですか、漢字でかくと使徒ですか、あのいろいろでてくるヘンな連中、あれがあばれてるときにかかってる音楽をはなうたでうたっておりました。なぜそのはなうたなのか? それはじぶんにもわかりません。はなうたなんて適当にでてくるからはなうたなんです。いい気になってどぅんどぅんどぅんどぅんとはなうたっていると、ヨメに注意されました。そのズンドコ節のはなうたはやめろ、と。ズンドコ節? じぶんはおどろきました。どうもヨメはドリフのズンドコ節とかんちがいしたようです。いいやちがうんだこれはズンドコ節じゃない、これはエバンゲリオンのシトの、と訂正しようとして、はっと気づきました。おんなじなんです。ほぼ。多少ニュアンスはちがいますが、ほぼおんなじなんです。それも、ドリフのズンドコ節のベースラインとおんなじなんです。ほぼ。じぶん、また大発見してしまいました。それはもうたいへんな発見です諸君。どぅんどぅんどぅんどぅんどぅんどぅんどぅんどぅん。この発見に気をよくしたじぶんはそれからしばらくズンドコ節のベースラインをくちづさみつつ台所でおどり、一汗ながしました。おかげできょうもふろあがりの牛乳がうまかったです。以上でほんじつの日記をおわります。ご静聴感謝します。ぽいう。

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May 27, 2005

 どくしょをするかとおもい西尾維新「クビキリサイクル」というのを本屋にてかいもとめひろげてみたのですが2ページほどよんだところでくじけそうになってしまいました。これはこのさきよみすすめていくとマシになるのですか。もうしわけありませんがどなたかおしえていただけませんでしょうか。それによってこのさきの自分のじんせいの進路を決断しようとおもいます。そんなだいそれた話ではないんですが。ともかくよむかよまぬをかきめます。いまのところ自分にはマシになるみこみがまったくかんぜられませんのでいったんこの本はとじて、かたわらにほうりなげてあったオヤジ雑誌「週刊実話」のフクロとじ「花井美里透け乳首問題撮」をながめています。オヤジ雑誌というのはオヤジにうまれてきたしあわせをひしひしとかみしめさせてくれるモノです。いやもちろんオヤジにうまれてきたひとなんかいないけど。ひとはオヤジにうまれない。オヤジになるのだ。あたりまえだ。とにかくオヤジじんせいにはオヤジじんせいのいいところというのもあって、たとえば新幹線の車中なんかでオヤジ雑誌をぱらぱらとめくってたりするというのはひとつのしあわせです。オヤジ雑誌って、あんなのだれがよむんだろうっておもったりもするけど、いがいとしあわせなんだよあれ。おまけに透け乳首だもんなあ。にんげんてすごいや。ってこの文脈というかながれでこういう発言をすると花井美里の乳首がすごいみたいですが、そうではなくて、「花井美里透け乳首問題撮」ってただの文字列ではないですか。「花」と「井」と「美」と「里」と「透」と「乳」と「首」と「問」と「題」と「撮」をならべただけではないですか。たんなる漢字の順列組み合わせではないですか。ひとつひとつの文字をとりあげてみればさしたることもないただの平穏な日常生活みたいなかんじであるにもかかわらず、そう、にもかかわらずです、にもかかわらず、このような順番でつなげられるとトタンに「むをっ?」とか「くはっ」とかいったこえにならないこえをのどのおくでもらし、おもわずキオスクのタナから手にとってしまうみたいなこの文字列マジック花井美里透乳首問題撮。諸君、いったいこれはどういう魔法なんだい? 私的な見解としてはやはり「透」にポイントがあるのではないかと。しかしもちろん「透」だけではだめです。雑誌の表紙に「透」だけあったって、なんでそれでみなさん「むをっ?」となるでしょうか。「花井美里」と「乳首問題撮」のあいだにはさまれた「透」。あたかも胸の谷間にはさまれたかのような「透」。ここです。この「透」がポイントです。透けたそのさきにはなにがあるのか、という想像力すなわちイマジネーションをかきたてるパワーが「透」のひと文字によってここまで発揮された事例はかつてなかったとおもわれます。さらにはこの順番といいますか、コラボレートの妙というんでしょうか、類い希なる配置術とでもいいましょうか、ここのところもわれわれはみのがしてはいかんのです。「透花井美里乳首問題撮」ではなく「花井美里乳首透問題撮」でもなく、「花井美里透乳首問題撮」。もはやこれは雑誌の見出しなどではない。じゃあなんなんだというと自分にもわかりませんが、言葉を超越した彼岸の境地にそれはあるようにおもうんです。ただひたすら、神様ありがとう、みたいなところにそれはある。ああ。ああ。神様ありがとう。なにいってんだばかめ。そんな話じゃなくて西尾維新だ。これはこのさきよんでていいコトがあるのか。だれかおしえろ。じゃなくてじぶんでしらべりゃいいのか。ネットなんだから。でもそれもなんかめんどくさいし。本はページを透かしてよむわけにはいかんからなあ。ページのさきが透けてみえて、ついでによむ価値があるのかどうかまであらかたわかったら便利なんだが、そんなことはできん。そういった意味でも透乳首はえらい。えらいのか。つうかもともとこんな話をしようとはおれはぜったいしてなかったぞ。なんなんだもう。

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May 24, 2005

めざまし

 ここだけの話ですが僕の配偶者はそうとうにいぎたないひとです。よくねます。それはもうよくねます。それはべつにかまわないんですが、こまるのは、おこしてもおきないことです。いや、いちおうはおきるんです。おきるのかな。ていうか、そもそもさいしょにおきるのは僕です。配偶者がおきたい時刻にめざましをかけることがあります。めざまし時計は電波時計です。一日に12回も電波を受信して誤差を修正してくれるというスグレモノです。ここさいきんの発明のなかでもっともありがたいモノのひとつだと僕なんかはおもうんですけど、配偶者はこのありがたさにちっとも理解をしめさず、そんなの五分くらいすすんでようがおくれてようが大差ないんだからなんだっていいだろ、とうそぶいて、なかなかうちには導入されませんでした。僕が哀願してやっとかってもらったほどです。電波時計、僕はだいすきです。これこそ文明です。でも配偶者はちっともすきじゃないみたいです。すきとかきらいとかではなく、ねうちがわからないみたいです。価値観の相違というやつです。この相違については、僕はなんどかおどろかされました。僕は、僕たちが結婚するまえに、新幹線にのりおくれたことがあります。そのころ配偶者は大阪に在住していて、関東から僕があそびにいったときに、かえりの新幹線の出発時刻をつたえて、あとはまかせておけば間に合うようにうまく駅につれていってもらえるだろうとたかをくくっていました。甘かったです。そのころ僕は彼女がわかっていませんでした。それこそ電波時計ではかったかのような、すばらしくギリのタイミングで新幹線に乗り遅れました。新大阪の駅のプラットホームの階段を全力疾走でかけあがり、新幹線のドアの二歩手前くらいでドアがプシューっとしまる、というテレビドラマみたいな貴重な体験をさせてもらいました。それいらい、大阪にいったさいはかえりの電車の時刻の心配はじぶんでするようになったのはいうまでもありません。でも話はこれだけではすみません。いちばんたまげたのは、飛行機に乗り遅れたことです。結婚直後に配偶者の実家のほうに飛行機でかえったときに、僕もまだ配偶者のことをそこまでとはおもっておらず、飛行機の出発時刻についてまかせっきりにしていたのですが、おもいきり乗り遅れました。とっくのとうに飛行機は離陸してしまったというのにわれわれはそんなこととはつゆしらず、羽田の飛行場のなかをぷらぷらしておみやげはなににしようかなどとノウテンキに話しあったりしてました。そりゃびっくりしましたよ。飛行機がすでに飛びさったあとだとしったときは。恥ずかしかったですよ。あんなに場内放送をかけたのにきてくれなかったじゃないですかと係員にしかられたときは。さすがにこのとき僕は、さとりました。つまり配偶者は、そういうひとなのだと。ある意味すごいとおもいます。勇気があるんです。僕にはそんな勇気はありません。尊敬します。しかもやがて配偶者のおねえさんから、配偶者のその手の武勇伝をいくつかきかされるにおよんでいよいよその尊敬の念はつよまりました。なんていうか、うまくいけませんけど、配偶者は、そういうひとなんです。だから、めざまし時計でおきるなんて、そんなことは彼女にはありえません。いや、いちおうはおきてるというか、めざましをとめたりはできるみたいです。セットした時間にめざましの音がなりだすと、フトンからよれよれと手をのばし、快適な睡眠を阻害するそのやかましい音をとめたりはします。でも、どうもあれはおきてるわけじゃないみたいで、無意識でやってるみたいです。その証拠に、めざましのスイッチをおして音をとめた、つぎの呼吸はすでに寝息です。手をめざましのうえにのばしたまま、ねています。戦場でたおれた兵士のように。このポオズはいったいなんのつもりなのか、と配偶者をめのまえにして僕はなやみます。よくわかりません。僕はめざまし時計をセットすると、セットした五分まえくらいに勝手に目がさめてしまうというタイプのにんげんなので、彼女の行為は意味がわかりかねるのです。ともかく、めざましをかけていたいじょうはその時間におきようとほっしていたのであろうと推測されるので、いちおう僕はよこからそっと手をのばし、ぽんぽん、と肩のあたりをたたいて「おきないのかい?」とたずねてみるのです。遠慮がちに。すると、何語だかわからない、それいぜんにそもそも人語とはおもえないもにゃもにゃした音をのどの奥からもらし、配偶者はねむりにつきます。音のニュアンスからさっするに、つまり、ねていたいということなのだろうと僕は解釈して、そのままねむらせます。怒られるのは、それから数時間後、配偶者が本格的にめざめたあとです。それはたいてい、セットしためざましをとめたのはだれか、という犯人追求からはじまります。きみがとめたんだよ、と僕が指摘すると、なぜわかるのだ、ときかれます。みていたからだ、とこたえると、みていたのならなぜおこしてくれなかったのだ、となじられます。おこしたよ、なんども、とこたえると、わたしがおきなかったいじょうはそれはおこしていないのだ、なんて役にたたないやつなのだ、とさらになじられます。すごいです。リクツもへったくれもありません。あまりの無法ぶりにかえって感動さえおぼえるほどです。そんなにあとになって僕をなじったり後悔したりするのなら、めざましがなった時点でおきりゃいいのに、と僕はおもいます。ばかだなあ、とおもいます。そしてたぶん、それが僕が彼女をすきな理由なのだろう、と僕はおもいます。

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May 23, 2005

「このままでは国が滅びる」だとか「このままでは日本は滅びる」だとかいうのをしょっちゅうきかされるんだけども、そうやってあれこれ心配したがる連中がいるんだけども、おれにいわせてもらうならそんなのは根本的にまちがっているのであって、そうやって心配してるかぎり根本的にダメなのであって、じゃあどうすればいいのかというと、いいかよくきけ、滅びるのだ! 滅びをめざすのだ! そもそもおまえら、なぜ滅びをめざさない? あしたはきょうよりもダメになるのだ。きょうよりもダメなよのなかにするのだ。とことんダメになるのだ。そして、ついには滅びるのだっ。と、それくらいの覚悟があったものだけが、ことをなしたといえるくらいのことをしたみたいな気がする。だいたいおれはうまれてからもうえんえんとなん十年も「ニホンハホロビルニホンハホロビル」と呪文みたいにきかされつづけてきて、そのたびにわくわくしていまかいまかと滅びるのをまっていたんだがちっとも滅ばなくていいかげんうんざりしている。そんな滅びる滅びるいうのなら、そろそろここらでいっぺん、まじめにちゃんと滅んでみたらどうか。どうだ? なあ? いっぺん滅んでみるか? え? どうなんだ? どうせ滅べないくせに。つうか滅べよ。滅ぼうよもう。滅ぼう滅ぼう。おれといっしょに滅びましょうよ。

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May 19, 2005

WMZN

→やあみんな元気かい。合い言葉はWMZN、おれがぽいうだ。なんだかきょうはすっきりしない天気だったね。もしもきみが今日の天気みたいなすっきりしない一日をすごしてしまったなら、今夜の放送をきいて、もやもやを吹き飛ばしてくれ。今夜も素敵な曲をがんがんかける。もちろん、もやもやしてないきみのためにだって、とびきりの曲をたくさん用意してある。さあ、今夜もしばらくのあいだ、つきあってくれ。
→じゃまず、今夜はハガキをよんでみる。こんなハガキだ。

「ぽいうさんこんばんは。いつも放送をたのしみにきいています。ところで僕にはいま、すきな女の子がいます。そもそもはこないだ、スーパーでリンゴをかったところから話ははじまります。僕は買い物カゴにリンゴをいれて、レジにもっていきました。レジ係の女の子はパチパチとレジスターをたたいて、250円です、といいました。財布のなかをみまわした僕が、なかから3枚の100円玉をとりだそうとしたとき、そのうちの1枚が床におちてしまいました。「だいじょうぶですか?」とレジ係の女の子が心配そうにたずねてきました。「だいじょぶっす」僕はこたえて100円玉をひろいあげ、彼女にわたしました。彼女はそれをレジスターにしまいこみ、おつりの50円玉をとりだそうとしました。ところが、こんどは彼女がそれを床におとしてしまいました。「だいじょうぶですか?」ほんのじょうだんのつもりで、僕は彼女の口調をまねて、そういってみました。彼女はすこしおどろいて、それから、「だいじょぶっす」としゃがみこんで50円玉をひろいあげ、ほほえみながら僕にわたしました。よくみると、めがねの似合う、素敵な女の子でした。僕は、ひとめぼれというのがほんとうにあるのを、このときはじめてしりました。ぐっときちゃったんです。そのまま結婚をもうしこんじゃおうかとおもうくらいに。ところが、僕は、シャイなにんげんで、とてもそんなこと、いえません。いまだに食事にさえさそえません。じつをいうと、それからまいにち、彼女のところへいって、リンゴをかっています。彼女は僕をおぼえていて、いつもほほえんでくれます。すべての男が勇気をもってじんせいにたちむかえるほほえみだとおもいます。でも、それだけ。そこからさきはまだなにもなし。おかげでリンゴばかりふえてこまっています。ぽいうさん、うまいリンゴのたべかたをしってたら、ぜひおしえてください。それと、女の子の食事のさそいかたも、できたらおねがいします。
                              なやめる青リンゴより

→青リンゴくん、おたよりをありがとう。うまいリンゴのたべかた、かい? そいつはじつは、おれにはわからないんだ。ごめんよ。でもひとつ、わかってることがある。それは、きみはいいやつだってことだ。おれの放送をきいてくれてるやつに、わるいやつはいない。保証するよ。きみはいいやつだ。彼女と恋におちる資格がじゅうぶんにある。だから、ちょっとだけ勇気をだして、彼女をさそってみたらどうかな。きみの恋のねがいがかなうように、ここでいのっておくよ。おほしさま、よろしく。
→オーケー、おしゃべりはこれくらいにして、曲にしよう。オジーオズボーンで、「Bark at the moon」。こいつで青リンゴくんの恋を応援してやろう。……。してるのかな? まあいいや、とにかくかける。きいてくれ。「Bark at the moon」。バカダモ〜ン。

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May 14, 2005

チョコベイベー

せんじつ、「ジブンはこどものころどんな夢をもっていたのか」とニョーボにとつぜんたずねられて、返答にきゅうしてしまった。夢? ハテ? こどものころの夢ってどんなだったろう? たぶんあったとおもう。さすがに。なにかしらはあったはずだ。しかしまったくおもいだせない。だいたいまえの日の晩ごはんのおかずさえおもいだせないのに、35年もまえにかんがえたことなておもいだせるはずがない。ような気はする。でも、コトが夢だけに、夢っていうのはそんな簡単にわすれてしまっていいのかどうか、そんな簡単にわすれてしまえるのなら、たんに時間がすぎればわすれちゃうのなら、そんなのは夢ではないのではないか。してみるとおれは夢さえみれない少年であったのか。それっていうのはひととしてなにかなさけないのではないか、といろいろおもいだそうと努力してみるのだが、なかなかうかばない。モンモンとした日々をすごしていたのであるが、きょうのよる、近所のスーパーにでかけてお菓子売場をとおりかかったさいに、はっとおもいだした。夢。そう、こどものころ、たしかにおれには夢があった。夢見る少年だった。その夢とは、チョコベビーをくちいっぱいにほおばることである。たしかにげんざいおれはみずからに厳しくひとには優しい、万人がみとめるところのまことにできたにんげんで、おかしなどといった食品はじぶんをダラクさせるものだとかんがえてくちにしないようにつとめているのであるが、こどものころはまだそこまでゆきとどいてはおらず、チョコレートなんかもだいすきであった。とくにチョコベビーがすきで、くちいっぱいにほおばりたいなあとおもうのだがもったいなくてそれができず、一日一粒ずつたべていた。ときたま清水のブタイからとびおりるくらいの決心をして三粒くらいくちにいれてみたりするのがとうじのおれにとっての最高のぜいたくであった。大盤振る舞いであった。そして、いちどでいいからチョコベビーを百粒くらいいっぺんにガーっとくちにながしこんで、もしゃもしゃとたべてみたい、もしこの夢がかなうなら悪魔に魂をうってさえいいと、そんなふうにおもっていたのをおもいだした。おれはスーパーの棚にならんだチョコベビーをつまんで、しゃかしゃかとふり「シェケナベイベ」とつぶやいた(いみはない)。少年時代の夢が、いまならかなえられる。いまならそれができる。ひとつといわず、三個くらいかって、いっぺんにくちのなかに流し込むことだってできる。それをもしゃもしゃとかみくだいてのみこみ、まっくろい小便がでるくらいにすきなだけ食べることができる。でも、とおれはかんがえて、チョコベビーを棚にもどした。いつでもそれができるとおもったら、いまそれをする必要なんてない。したくもない。ぜんぜん興味もない。そうだ諸君、少年の夢は、かなわないから夢なのであって、いまとなっては夢でもなんでもない。なにか、悲しいことだとおもわないかい? ……あ、おもいませんか。そうすか。しつれいしました。ねます。

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